一番星みつけた(歯科学生の日常)

北海道生まれ、北海道育ち
そんな私が九州へ!
歯学部青年の愛と情熱の日々を綴った
パトスの結晶!!
前略、お袋様。私は生きています。

当ブログの更新は終了しました。

続編ブログ
「俺はタクランケ!(歯科学生の日常2)」
http://tulip-kimkim2.jugem.jp/

よろしくお願いします

2014.07.14 Monday

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2014.06.06 Friday

八幡が燃えた日

八幡市民会館の前…



「平和の女神像」の

右手にある公園の片隅に




「慰霊塔」がひっそりと佇んでいる



遊具もない広場のような公園を

見渡せるような位置に

ぽつんと建っている「慰霊塔」




塔の下に説明が添えられていた

写真では読みにくいので

下に文章を書き起こす


   
   この地一帯は丘陵地で小伊藤山と呼ばれ

   その麓まで家屋が立ち並んでいた

   太平洋戦争となり

   北から 南から また西から

   防空壕が築造された

   昭和二十年八月八日午前十時 

   米空軍による焼夷弾攻撃で

   付近一帯は焼け野原となり

   この防空壕に避難した人々は

   火焔に包まれ全員窒息死した

   その数三百人といはれている

   戦災復興区画事業により

   この地を公園とし 戦災死者を追悼するため

   昭和二十七年慰霊塔を建立した

 


碑文にもある

昭和二十年八月八日…

ヒロシマの二日後、ナガサキの前日…



200機を超すB-29の大編隊が

八幡の空を覆い

中央町から桃園にかけて

45万発を超える焼夷弾が降り注いだ

(ちなみに、東京大空襲において

投下された焼夷弾の数は

38万1300発である)




八幡の街はたちまち火の海となり

市街地の21%が壊滅した



この「慰霊塔」は

この空襲の際に亡くなった

小伊藤山の防空壕に

退避していた動員学徒とその引率の教員

市民など約300人の霊を慰めるために建立された

その300人は蒸し焼き状態だったと伝えられているそうだ



また「戦災復興誌第八巻」によれば

この空襲による全体の被害は

焼失 14380戸

罹災面積 922000坪

罹災人口 54362人

死傷者 2952人


にものぼったと記録されている



しかし、皮肉なことに

この八幡空襲によって生じた靄は

翌日も7kmはなれた小倉を覆い

小倉は原爆投下を免れることとなったという…



慰霊塔を前にして

静かに手を合わせた…




米軍による空襲は、天災ではない

私は、どうして日本を焼き尽くした

鬼のようなアメリカに、いま

日本が寄り添ってへらへらしているのか



不思議で仕方がなくなってしまったのであった


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■関連記事■

 沈黙の名
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=124
  小倉・勝山公園にある平和の鐘

■参考文献■

 八幡大空襲
 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-yawata.htm

 八幡空襲(Wikipedia)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A9%BA%E8%A5%B2


 

2014.05.28 Wednesday

ディアンドルは遥かなり…

小倉にオクトーバーフェストがやってきた



その昔、将来の夢が「ドイツ人」

だったこともある私としては

これはいかねば!と

男友達を誘っていくことにした



昼ごはんもマックで

ドイツバーガー

ポークシュニッツェルを食べて

機運を高めた




これで準備万端!



放課後、用事も終えて

いざ行かん!と

学校を出た瞬間…













豪雨・雷雨のあわせ技…

尋常でなくショーシャンク状態だった















雨、ふってんじゃねぇか…















学校を出た瞬間、降り始めるとか…

これはこれである意味、運命的だ



私たちはオクトーバーフェストをあきらめて

食いばやしフェストに切り替えた




食いばやしは、大学前の居酒屋で

よく行くお店のひとつだ

オクトーバーフェストのビールが

一杯1000円前後と

ちょっとお高いのに対して

食いばやしのビールは一杯290円

キンキンに冷えて290円







…食いばやしフェスト、最高!











でも…




ディアンドルのお姉ちゃん

見たかったなぁ…













百億年の遠い昔




生まれた銀河は 時を越え



幾多の歴史見送っただろう



僕の未来も 映すだろう



出逢いと別れ 生まれた絆



胸に残る笑顔 忘れない



人はいつでも 夢を抱いて



限りのある命を ロマンに変えられるよ



いつか誰かと 語る日が来る




僕らの夢と 銀河鉄道は遙かなり



人は誰でも 夢に向かって



新たな軌道を行ける



勇気を持っているよ



生きた証を残す旅路へ



僕らが進む 銀河鉄道は遙かなり



…遥かなりディアンドル

…遥かなりオクトーバーフェスト

嗚呼、オクトーバーフェスト




もし、外国人に生まれ変わるなら

私はドイツ人になりたい




それでは、ばいちゃ☆





♪「銀河鉄道は遥かなり」(ささきいさお)
 

2014.05.25 Sunday

「犬の糞」川柳でたどる旧九州鉄道の史跡

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■関連記事■

 九州鉄道記念館
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=553

 寝台特急「月光」
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1540

2014.05.18 Sunday

北九州市夜宮公園の戦没者慰霊塔

今日は連盟の集いで

久しぶりに夜宮公園の

戦没者慰霊塔の前でバーベキューをした




日曜日ということもあって

散歩をする人、体操する人

さらにはサッカーをする人や

野球をする人など

皆、思い思いに休日を過ごしていた



さて、非常に大きくて立派な

夜宮公園の「戦没者慰霊塔」

この塔に気が付いたのは

3年前の、これまた集いのときだった




ずっと気になっていたので

いままで調べてきたことを

良い機会ということで

ちょっとまとめていきたいと思う




この慰霊塔は、昭和34年に

市民の浄財によって建立されたそうだ

西南戦争以降の

戸畑出身の戦没者が慰められているという




手を合わせる人もいた



シャッターの向こうには何があるのだろうか?

慰霊祭なども行われているのだろうか?

調べてみても、ちょっと資料が出てこない




灯篭のような「放送塔」

ここからラヂオ放送でも流れるのだろうか?



ふと、この広場に集まって

「放送塔」から流れる

玉音放送を

こうべを垂れて聴く

旧戸畑市民の姿を想像した




ここで、かつての戸畑市民たちは

そのようにして

終戦を迎えたのだろうか?



しかし、この夜宮公園が整備・設置されたのが

北九州市発足前の1957年(昭和32年)

そして、この慰霊塔が建立されたのが

1959年(昭和34年)

いずれも戦後の出来事であった

私の想像は、単なる想像にすぎなかったのだろうか?



私は慰霊塔に向かって

静かに手を合わせて

平和を享受できる幸せを

父祖たちに感謝した



平和だ…




いたって、平和であった


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2014.04.23 Wednesday

韓国旅客船沈没と広瀬中佐

ニュースやワイドショーは

韓国旅客船沈没の事件で

持ちきりだ…



連日、様々なニュースが飛び込んでくる



テレビを通して

行方不明者の救出・捜索が

難航している様子が伝えられている



それに加えて

船長・乗組員の無責任ぶりも

日に日に明らかになって

伝えられてくる



私は、この「韓国旅客船沈没」の

ニュースを見るたびに

文部省唱歌「廣瀬中佐」の

旋律を思い浮かべる



私は、この無責任な韓国人船長と

軍神とまで歌われた広瀬中佐を比べて

日本人がどうこう

韓国人がどうこう

歴史が、民度が

あれが、これが、なんだかんだ、と

語るつもりはない



それはあまりにも短絡的だし

私は、旅客船に乗っていた

韓国人高校生チョン・チャウン君が

救命道具を友人に譲り

自らは逃げ遅れ

絶命したという話も聞いている



韓国メディアは

船長を糾弾しながら

彼のことを称賛しているという



私は

この「韓国旅客船沈没」事件の解決を

切に願ってやまない



さて、少しこの事件からは

話がずれてしまうのだが

前述した「廣瀬中佐」のことを

どれだけの日本人が知っているのだろう?

事件の次に関心がいくのは、そこである




廣瀬中佐(作戦時少佐、戦死後昇進し中佐)は

日露戦争の旅順攻防において

艦がロシア軍に沈められて退艦する際

部下の杉野孫七上等兵曹の姿が見えないので

捜索のために単身艦に戻り

名誉の戦死を遂げて軍神と賛えられた


(昭和22年に撤去されてしまった広瀬中佐の銅像)



この廣瀬中佐の物語は

戦前は軍国美談として語り継がれ

日本人なら

だれでも知っていた英傑のひとり

であったが

戦後は教育現場で語られることも

歌われることもなくなってしまった





(最早、マイナーネタとなっている…)



そういえば、この間

「世界一受けたい授業」の特番で

「日本人が好きな天才ベスト100」を

やっていたが

乃木大将や広瀬中佐のランクインが

無いことに、少し違和感を覚えた



「軍国美談」であれ

美談は美談

偉人は偉人

英雄は英雄なのである



日本人の英雄を多くの日本人が知らない

という状況が少なからずあるところに

歪んだ祖国の有様を垣間見たような気がした



いま、韓国メディアでさえも

無責任な船長を「野蛮人」と

罵って止まないが

私たちは、いま、テレビを通して

道徳心の荒廃やモラルの低下が

叫ばれている日本の

未来の姿を見ているのかもしれない



私は決して

道徳心の復興、向上のために

戦前の教育を復活させて

軍国美談を教え込ませろ!

という短絡的なことを

言っているのではない



けれど

もっと道徳やモラルといったものと

真摯に向き合うとともに

冷静な視点で歴史を評価していかなければ

日本の未来はないのかもしれない…と

少しだけ国を憂いてみたりするのであった


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2014.04.09 Wednesday

戦時下の標語をgoogle翻訳に入れてみた その2

前回が好評だったので

またやってみた!



ルールは簡単!

戦時下の標語をgoogle翻訳にぶちこんで英訳!



そこで出て来た英文を

確認のために、再度

google翻訳に入れ和訳する!

という企画である!!



では、いってみよう!

まずはこちらから!



「アメリカ人をぶち殺せ!」



ひねりゼロの、直球すぎる標語

最早、過激すぎて

「標語」と言えるのかさえ疑問である(笑)



まず、これを英訳してみる!



Kill spotted the Americans!



なるほど、英語にするとこうなるわけね…

でも、これが正しいのかどうかを

確かめるために、再度、投入!



すると…



キルのアメリカ人を発見!



アメリカ人を発見!?



アメリカ人を「ぶち殺せ!」から

「発見!」に変化させてしまうなんて…

恐るべきアメリカ!



恐るべき英語の魔力!

こうして、日本は

戦後、骨抜きにされていってしまったのか…



このような魔性の英語を分析するために

どんどん翻訳していきたい



次はこれ!



「何がなんでもカボチャを作れ」



この楽しげなカボチャの絵から

にじみ出て来る

どうしようもない悲壮感と必死さ…



これを英語にするとどうなるんだろう?



What make a pumpkin anything



なるほど、英語になると

カボチャもパンプキンになって

途端にお洒落さが出るような…



これをまた翻訳すると…



どのようなカボチャ何をする



これでは…



「何をする!」と

カボチャにビビっている人ではないか!?



どうなっているんだ!

ますます、英語が恐ろしい



次はこれだ!



「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」





これは銃後の国民を戒め奮起させる標語

これほどまでに悲壮感の漂う日本語を

さすがの英語であっても

骨抜きにすることはできないだろう!

と、意気込みながら翻訳!



Devised not to short of unexpected

short of unexpected short of




ふはは!これを、さらに翻訳!

すると、こうだ!!



いないの予期せぬショートの

予想外の短い短いために考案




稲井さんの思考回路が

すぐショートしちゃうよ!?

みたいな感じになっている!!?!?



うう、なかなか

再翻訳によって

正しさが証明されない




しかし、めげずに

続いて、これだ!!



「電力は戦力!」



なんとも勇ましい!

こんな勇ましい日本語を

さすがの英語も(以下略

そして、簡潔な文章だし

再翻訳で整合性がとれるはずだ!!



そりゃ!



PowerはWar force!









PowerWar force!

ん?「は」?

ついに此処に来て

我等の日本語が英語に

抵抗を見せ始めたか!!



これぞ大和魂!!!?



そしてこれを再翻訳!



電源は戦争力!



なんだか…



やる気スイッチの話みたいになってしまった…








しかし、日本語よ!イイ感じだ!

主旨が変わってきているような…






この調子で

日本語が英語に勝る

「強い」言語であることを

証明していかなければ!!



最後のバトルはこれだぁ!



「空爆にキャラメル持って!」



パイロットさんたちは

本当に飛行機の中に

キャラメルを持っていたのだろうか?

とにかく、珍しく

皇国日本の余裕が伺える標語だ



これを!えい!



To have caramel in the bombing!



そして、これを再翻訳!



爆撃でキャラメルを持っている!




たちまち、私の脳裏に



ダダをこねるパイロットの姿が…



恐るべし英語

一旦、そのフィルターにかかってしまえば

凛凛しい皇国の荒鷲も

ワガママキャラメルボーイに早変わり…




英語、恐るべし!



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 戦時下の標語をgoogle翻訳に入れてみた
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2034

2014.03.29 Saturday

「君が代」について(朝まで生テレビを見て)

昨晩、結局「朝まで生テレビ」を

久しぶりに最後まで見てしまった…

昨晩のテーマは「激論!安倍教育改革」であった

その中で、国旗・国歌問題について

とりあげられていたので

このブログでも少しだけ取り上げていきたいと思う




なにぶん、若輩者で

なかなかうまく表現することができなかったり

誤解を与えてしまったり

不快に思われてしまうかもしれないが

それはあしからずご了承いただきたい

もし、なにかあればコメント欄にお願いいたします



さて、少し長くなるかもしれないが

私の身の上話(?)を聞いていただきたい



私は小中学校が国立だったせいか

小学校一年生の頃から

全校集会で何度も「君が代」の練習をした

直立不動で、じっと日の丸を仰ぎながら

みんなで大声で斉唱した

ちなみに、私は

今をときめく「ゆとり世代」である



しかし、音楽の先生が中心となって

どこで息を吸うのか?

歌詞の意味は?

というところまでしっかりと指導された



1999年の

「国旗及び国歌に関する法律」によって

そういう気運が高まっていたのかはわからないが

全校集会で、君が代の歴史について

テーマになったこともあった



私にとって日の丸を仰ぎながら

君が代を歌うということは

その詳しいところはわからなくても

ごくごく当たり前のことだったのである



しかし、高校にあがったとき

私は、入学式で

とある光景を目にする

「国歌斉唱」で歌わない…どころか

着席しだす学生や父兄が大勢いたのだ



友人たちに聞いてみると

「日の丸・君が代は侵略国家としての象徴」

という信念にも似た認識を持って

頑として歌わないという者もあれば

「小学校・中学校で君が代を教わらなかった」とか

「入学式・卒業式では

演奏を録音したテープが流れるから

歌ったことはなかった」とか

さらには、これまで経験した式典において

「国歌斉唱」がなかったため

あまり聴いたことがない

という者まで居たのである

それも、決して少数ではなかった



私は愕然とした

自分の中で当たり前だったものが

当たり前ではなかったのだ



私はその頃

とあるメーリングリストに登録していたため

早速「君が代」について

オトナの人たちと激論を交わした



そのときの、私の主張は以下の通りであった

・私は国民が国歌を歌わないのはオカシイと思う

・国歌を国民で一同に歌うことによって団結感が生まれるはず

・日本国の象徴である天皇陛下を「君」と仰いで何が悪い




それについての反論は主に次のようであった

・「日の丸」「君が代」はアジア侵略の過去の象徴

そのように

「天皇の戦争責任」に関して言及したものもあれば

「音楽的でない」という感情論まで飛び出した



「君」の解釈については

戦後、幾度となく

様々な議論が交わされてきたと思う

しかし、天皇陛下は日本国の象徴なのだ



私は「象徴」ということは

天皇陛下は日本であり

日本とは、すなわち天皇陛下なのだ

だから、天皇陛下の安寧を願うことは

即ち、日本の安寧を願うことなのでは?

と考え(今もそう思っている)

のだが、そのような若造の

素朴な疑問に関しては

これといった返事を得ることはできなかった



また、ここでは

主権の所在に関する議論は

本質的ではないと思うのだが

天皇主権から国民主権になったのだから

天皇を讃える歌というのはオカシイ

という意見が強いような印象を受ける



さて、前置きが長くなったが

「朝まで生テレビ」で

こういった私の抱いていた

考えや疑問に関して

すっきりと意見を述べていた方が一人いた



「やしゃご」こと竹田恒泰氏だ



氏は戦前からの

国家の連続性について述べられていた

国旗・国歌が同じなのは

戦前から国家が連続しているからだ
、と

また、君主制の国において

君主の長生きを歌うことはなんら不思議ではない
、と



竹田氏以外の有識者の方の話を聞いていると

・戦前の日本は軍国主義で

戦後、平和主義・民主主義の国家になった

・大東亜戦争(太平洋戦争)によって

戦前の国家は消滅・解体され

戦後に、あたらしい国家が形成された


という認識を強くお持ちの方が多いように思う



しかし、ここからは私の個人的な意見だが

日本における天皇というものの

本質は常に変わりなく続いているものであって

その時代時代によって

明文化されているものが違っていたり

明文化のされ方が違っているだけで

「大日本帝国憲法」における天皇というものと

「日本国憲法」における天皇というものの

本質的な部分はなんら変わりないと思っている



また、こういった「万世一系」の天皇によってのみでなく

戦後の「日本国憲法」は

戦前の憲法・法律に定められたところの

憲法改正の手段を踏んで

制定され、施行・発布されたという点からも

戦前からの連続性をうかがい知ることができる



だから私は「君が代」や「日の丸」が

侵略の歴史を背負っているのだから

今も歌い続けているのはオカシイというのは

幾分、感情論ではないだろうか?

と思う次第なのである



戦争の時代に「君が代」が歌われた

そういう時代もあっただろう

だが、天皇陛下は決して侵略の象徴ではないし

「君が代」は天皇陛下の長寿を願い

日本国の繁栄を祈るものであり

侵略を遂行しよう!という過激なものではないのだから



私は大東亜戦争を侵略戦争とは思っていないが

侵略かどうか?という点については

この記事では言及を避けたい

しかし、一億歩譲って

大東亜戦争が侵略戦争だったとして



侵略戦争だったから「君が代」はよくない!

とか、戦前と戦後で連続性が絶たれた

というのであれば

戦前の政府の犯した罪を

戦後の政府が償う

というのもオカシイのでは?と思う



また、そういう人たちは


変わりない歌・旗によって

国家の連続性を示すことによって

できる反省もある、とは考えないのだろうか?




あと、戦前の日本が軍国主義で

非平和主義であったような前提で

話が進んで、竹田氏はもの言いたげだったが

明治から日本は平和主義であったと思うし

民主主義も天皇制の下で成立していたのだから

戦前が悪で、戦後が善というような雰囲気も

どうなのだろうか、と思ってしまうのだった

(いわゆる「自虐史観」というやつだろうか?)



そういえば、田原総一朗が

「日教組は『君が代』の代案をだしていないのか?」

と言って、パネラーの皆が

「さあ?」といった感触だったのだが

確か、日教組は「君が代」の代案として

「緑の山河」という曲を押していたと思うのだが…



私の記憶違いだっただろうか?



その後も、竹田氏は

いろいろともの言いたげだったが

言葉の端々を田原総一朗や辻本議員に

ちくちく反論され

話の節を折られていて

見ている私もむしゃくしゃした



あと、全然テーマと関係ないのだけれど

田原さん、入れ歯あってないのでは?と思った

こんなに歯切れ悪かったっけ…?

担当医さん、見てあげて!



といったところで

今日はこの辺で…

思った以上にまとまりがなくなってしまった…

最後まで読んでくださった方

どうもありがとうございました!




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2014.03.06 Thursday

平尾台終章

帰ってきてからざっと計算したのだが

石原町駅から平尾台までの往復で

約16kmほど歩いたことになる



この記事では、石の羊を堪能した後

なんとか無事に下山するまでを書いていきたい

 *これまで*

  平尾台序章
  http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2057

  平尾台断章
  http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2058 



平尾台では途中で

九州工業大学の研究チームが

ロケットの打ち上げ実験のために

散策路を封鎖していた(下図赤矢印の所)



そこを通ろうと思ったら

追い返されたために

帰り道は、遠回りしなければならず

その上、道に迷った



(赤ラインは私の散策経路

青点線は本当は通りたかった経路)



平尾台に居るのに

雑木林の獣道を通ったり…

イノシシにちょっと追われたり…

孤独と恐怖に心を折られそうになった



なんとか人里まで下りて来て

神社(写真左手)が見えたときは

ちょっと泣きそうになった(笑)



こじんまりとした集落を見て

私は山の反対側に抜けて来てしまった

と思った



しかし、この記事の最初に貼りつけた

案内図の地図を見てもらえば

わかっていただけるように

平尾台散策のスタート地点である

吹上峠から、北に数百メートルの

ところに出て来ただけで

反対側ではなかった



町を歩いていると

開拓記念碑なるものが設置されていた

北海道では良く見る種類の記念碑だが

神話の時代から日本であった

歴史ある九州ではあまり見ないため

とても珍しいと思った



碑文によると

戦後の食糧難の対策として

軍用地であった平尾台を民間へ払い下げ

そこに戦災者・海外引き上げ復員の人々が

入植して、現在の平尾台があるのだと言う



確かに、交通の便も悪く

山道も随分と歩かなければたどり着けない

それも、現在では舗装されているから良いものの

入植した時点では

ほとんど外界と遮断された環境で

あったのだろうと思う



荒涼とした山端を

ここまで切り開いた入植者たちの労苦は

碑文のママだが

想像を絶するものであったと思う



秋芳洞・秋吉台は戦前の古くから

日本を代表する観光名所だったのに対して

平尾台はその見晴らしの良さから

大正時代から終戦(昭和二十年)まで

「下関要塞地帯」の一部であり

陸軍の演習場として使用されていたという

観光地・名所としての平尾台の歴史は

思いのほか短いようだ



こうして、平尾台の開拓の歴史に

思いを馳せながら

私は帰路についた



帰り、カーブのところにパトカーが止まっていた



平尾台を通る車は

結構、びゅんびゅん飛ばしてくるのだが

この場所ばかりは

安全運転で徐行していた

…そのパトカーに誰も乗っていなかった

というのは、私だけの秘密(笑)



鉛のように重くなった足を

ひょこひょこ

重力に任せて動かしながら下山した



…ラーメン食べたい

…カレー食べたい

…あたたかいお風呂に

…足を延ばしてゆっくりつかりたい



私は歩く欲望に成り果てていた



とにかく呆然としながら

ただただ足を前に進めた



そうだ、ふもとにラーメン屋があったはず

そこで食べよう!あたたか〜いラーメンを!

ふふ、ギョーザも頼もう!

焼き飯でもいいなぁ!



ふふ



こうして下山して

一目散にラーメン屋に向かった



「ら〜めん!ら〜めん!」

しかし、浮き立つ私の心をへし折るように

ジャスト営業時間外だった

…もう1時間早く来ていれば…

…それか、もう1時間遅く来ていれば…



いや、じゃあ、今度は

向こうに見える喫茶店で

カレーでも食べようではないか!



「ぎゃらりーカルスト」なんて

それらしい名前じゃないか!

こりゃぁ、良いブログの記事になる!



営業時間を見たらam10:00~pm10:00

素晴らしい!営業時間じゃないか!

と、玄関まで駆け寄ってびっくり…

営業時間云々どころか閉店してたorz



それじゃあ、最後の砦だ

あそこに見える定食屋で飯を食べよう!

もうあそこ以外に

ご飯を食べられるようなところは

見当たらないのだ!



午後四時過ぎの遅い昼飯を!

腹いっぱい!

心行くまで!!



私は一所懸命に歩いた!

歩いた…のだが

まさかの

「本日の営業は終了いたしました」



うそぉん



仕方なく、併設されたスーパーの

特売品「佐賀ぼうろ」を購入



旅のコンセプトが

若干ぼけつつあるところで

今日はこの辺で…




それでは、ばいちゃ☆

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 平尾台序章
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2057

 平尾台断章
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 浮世はなれて…(8)秋吉台
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1443

 オホーツクの海(網走踏破)
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 奥座敷ぶらり(DC版)(札幌定山渓踏破)
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2014.02.18 Tuesday

戦時下の標語をgoogle翻訳に入れてみた

今日、英語の勉強をしていて

ふと思いついことがある

それは、戦時下のスローガンを

google翻訳にぶち込んだらどうなるのだろう?



あ、私はそういうことが

普通にふと思いつくような人間なのだ

あしからず読み進めてくだされ



ということで、早速起動!

Google翻訳!



ひたすら、翼賛的な標語を

打ち込んでは翻訳してみた

また、翻訳した際に

翻訳されて出て来た英文が

正しいのかどうかを確認すべく

その英文を再度、google翻訳にぶち込んで

日本語に再翻訳してみた



私に英語力さえあれば

googleさんの力を

二度も借りなくてすむのだが…仕方あるまい



しかし、日本語→英語

は、まだ良いとして

英語→日本語

で翻訳したときに事件は起きた



ということで

勇ましい戦時下の標語が

お間抜けな姿になっていく様子を

とくとご覧あれ!



それでは、まずはこちら



「進め一億火の玉だ」

を、日本語→英語に翻訳



すると

It is
one hundred million fireball promoted.

と表示された

ふむ…

そんでもって、この文章を

再度、日本語に翻訳

すると…




「それが昇格億火の玉です。」



しょ、昇格億火の玉…!?

なんじゃそりゃ??



なるほど、こういうことになるのか

ちなみに「昇格億火の玉」でググってみると




こんな画像が出て来た

うーん、一応通じる…のか?笑



魅惑の「昇格億火の玉」笑



さて、バンバン翻訳していく

次は



「欲しがりません勝つまでは」



Until it does not win will you wish to.

ふむ、それで、これをまた翻訳すると…



「それは勝つなくなるまであなたがしたいでしょう。」

…???

不思議な日本語になってしまった



続いて



「さあ二年目も勝ち抜くぞ」

見事に攻勢期らしいスローガン

これを、まず英語に翻訳



すると

The win is also the second year Come on.

そんでもって、これを再度ぶちこむと…



「勝利はまたさあ二年目です。」


急に「またさぁ」ってため口みたいになってる!?



これが欧米のフランクな気風

ということなのか?

そうなのか?

(多分、そうじゃない 笑)



ということで、じゃんじゃん翻訳したよ

続いて、戦時下の標語の定番!



「ぜいたくは敵だ!」

これは…



うんうん、そんで…



おお、「贅沢は敵だ!」は

「贅沢は敵だ!」だった

さっすが、Googleさんだ!



最後は、私が一番好きな

スローガンをぶち込んでみたよ!



なんてったって

「撃ちてし止まむ」

だね!

これほど敵愾心を

端的に的確に煽る標語はないと思う!



さて、これをぶちこむと…



Toman Shi not shoot!

おお、これは嫌な予感がぷんぷんするぞ…

おそるおそる、再翻訳してみると…



ああああぁ…!

「トマン市は撮影しないで!」

トマン市ってどこだよぉぉ



トマン市の撮影禁止みたいになってしまった



ん?

あれ?

よく見ると

「撃ちてし止まむ」を

「撃ちてし止まん」って

打ち込んでしまっている


あ〜、こりゃ失敗!

私の戦後育ち的な部分が

にじみ出てしまったなぁ



これを「止まむ」に直して翻訳



すると

Mom stopped and Shi have to shoot!

となった

う〜ん、これを再度、翻訳すると…



「ママは停止し、市が撮影する必要があります!」

おおぉぉ



なんか、大変なことになった(笑)



かくして

戦時下の標語は

英語という壁を乗り越えて

すっかり骨抜きされてしまったのであった…



ばいちゃ☆


 

2014.01.17 Friday

小野田さん、死去

今日、家に帰ってきて

ニュースを見て驚いてしまった



小野田さんが亡くなられた



*** *** ***

小野田寛郎さん死去、終戦知らずルバング島30年間任務続行

 フィリピン・ルバング島に終戦後も任務を続け、30年密林にこもって戦闘を続けた元陸軍少尉、小野田寛郎さんが亡くなっていたことがわかった。

 戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

 遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。

 大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。

 50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。

(引用:産経デジタル
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140117/lif14011712130011-n1.html

*** *** ***



小野田さんのことを知ったのは

いつのことだっただろう

確か小学生くらいの頃だったと思う

母の話で聞いたのだったか

そこのところの記憶は定かではないが

初めて知ったときは、とても驚いた



漫画だけではなく

本当に、戦争が終わっても

戦い続けている日本兵がいたのだ




(エスパー魔美「生きがいの巻」に出てくる横沢二等兵

名前からしてモデルは横井さんかと思われる)




漫画の影響もあってか

私は小野田さんのことを単に

戦争が終わってるのを知らずに

ジャングルで戦い続けていた

可哀想な人という風に思っていた



そんな私が小野田さんが

終戦後もフィリピンのジャングルに潜伏し

戦争を続けていた理由を知ったのは

中村獅童が主演をした

テレビドラマ「実録・小野田少尉 遅すぎた帰還」

を見てからであった



ドラマは2005年に放送された

私は中学生だった



このドラマによって

色々なことを知ることができた



例えば、小野田さんは

手に入れたラジオで様々な情報を入手していたこと

東京オリンピックの開催なども知っており

日本の繁栄を知っていたこと

さらには、サザエさんも密かに愛読していたこと



そうしたことを知りながらも

あくまで軍人として

命令を厳守し

正式な任務解除があるまでは

戦い続ける覚悟を持っていたこと



そして、ドラマは帰国後も

横になって体を休めることができず

(常に戦えるように傾斜面で寝ていたため)

時計の針の音さえ気になって眠れないという

ジャングルでの極限状態を

偲ばせる形で終わりとなっていた(と思う)



さらに、ドラマからさらに掘り下げて

色々と調べてみると

軍人としての小野田さんの凄まじさに加えて

陸軍中野学校二俣分校で叩きこまれた

情報将校としての情報収集能力と

洞察力・判断力に驚くばかりだ



   昭和20年暮れには、米爆撃機が大量のビラを投下した。

   「第14方面軍 山下奉文」名の「降伏命令書」であった

   しかし、「投降者ニ対シテハ食物、衛生助ヲ与へ、日本ヘ送ス」

   と、まるで日本語になっていない。

   山下将軍の名をかたった米軍の謀略だと判断した。

          (引用:「小野田寛郎の30年戦争」より)




と、あるように

小野田少尉が作戦行動の持続を判断したのも

情報将校として的確な判断だと思う



さらに、冷静な判断能力に加え

小野田少尉のもとに

もたらされた断片的な情報と

戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に

矛盾が起きなかったために

小野田少尉は部下と共に

日本の勝利を信じ

30年にわたり戦い続けたのであった



しかし、終戦に際して

正式な任務解除の命令が出なかったことや

小野田さんが帰国後受けた仕打ちを考えても

大東亜戦争の敗戦を境に

日本という国の歴史が

激しく断裂してしまっているのを

つくづく強く感じる



小野田さんが帰国後

ブラジルへ行ってしまったことからも

感じとれるように

戦争を境に

日本はまったく違う国に

なってしまったのだと思う



おそらく、小野田さんが命を賭して

戦って守っていたはずの日本は

すでに異質のものに…

いや、消えてしまっていたのだと思う



私たちの世代は

生まれ落ちたその瞬間から

実は祖国を失ってしまっているのではないか?

そんなことを、小野田さんを見ていると

ふと強く感じてしまうのだ



気付いてしまうと

猛烈な虚脱感を抱かざるを得ない

それは私たちの世代の

悲しい運命なのかもしれない



でも、心にぽっかり空いた穴は

白痴になることで

見て見ぬふりができる



そうすることで

どうしようもない虚脱感に

苛まれることもなくなるし

知らなければ知らないで

楽しく平和に暮らしていけてしまうのだ



一億、総白痴



気付く人、気付かない人

見えない人、見たくない人

色々いるから、世論はまとまらず

売国奴は横行し

国は気骨を示せないでいる



小野田少尉はジャングル潜伏中

改造したラジオなどから得た情報で

世界情勢を独自に分析していたそうだが

その分析にも驚いてしまった



まず、戦後独立したフィリピン政府を

「アメリカの傀儡」と解釈し

協定によってフィリピン国内に留まる在比米軍を

「米軍によるフィリピン支配の持続」と判断し

数々の戦闘を展開した

そして、大きな戦果をあげている



また、戦後日本の繁栄を知りながらも

士官教育を受けた小野田少尉は

戦後の日本政府を

「アメリカの傀儡政権であり、

満州に亡命政権がある」と判断



そして、小野田少尉は

投降を呼びかけられていても

二俣分校での教育を思い出し

終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思い

常に、ルバング島が

再び日本軍の制圧下に戻った時のために

密林に篭り、情報収集や諜報活動を続けた



さて、あなたは現在の日本が

「アメリカの傀儡」ではないと

言いきれるだろうか?



そして、小野田少尉の分析は

入ってくる情報が断片的だったとはいえ

戦後日本が「アメリカの傀儡」ではない

ということを証明し得るだけの

ものがなかった

という風にも言えるのではないだろうか?



祖国がまた一つ

日本らしさを失ったような

そんな感概をもった



小野田さんの御冥福をお祈り申し上げます



合掌






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