一番星みつけた(歯科学生の日常)

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続編ブログ
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2014.07.14 Monday

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2014.03.02 Sunday

その名は小林繁教授!!

**************
* 下関要塞司令部検閲済 *
**************

***********
* 小林教授許可済 *
***********




昨日、小林教授のテープカット姿を

この目におさめるべく

「九州歯科大学史料展」の

オープニングセレモニーに参加してきた



史料展は創立百周年を記念して開催された

セレモニー冒頭で学長が述べていたように

九歯大には歴史的な資料がほとんど残されておらず

史料展の開催に際して

小林教授が中心となって史料集めに奔走されたそうだ



オープニングセレモニーは

大勢の病院棟の先生方が見守る中

開催された

読売新聞など、マスコミの姿もあった



テープカット直前に撮影タイムが設けられたため

写真部や病院棟のカメラマンに交って

一緒に撮影してきた(笑)


そして、盛大なファンファーレのBGMとともに

チョキン!



テープカット!

史料展がオープンされた



史料展は講堂二階で開催されている



見慣れたはずの講堂が

しっかり史料展用に改装されていた



セレモニーの後は、小林教授による

展示物の紹介や説明があったので

病院棟の先生に囲まれながら

一緒に見て回った



歯学概論の医学史・歯学史で

多少は知っていたものの

小林教授の説明を聞いて

やっと知識の整理整頓をすることができた



ちょっとしたジョークもありながら

色々な話を聞くことができた

ちなみに、先生の横に写っている校旗は

八幡製鉄から寄贈されたものだという

どうして八幡製鉄から!?

それは今度、先生に聞いてみようと思う



「私立九州歯科医学校」から始まり

現在の「公立大学法人九州歯科大学」に到るまでの

波乱万丈の歴史が紐解かれた



私にはずっと抱いている疑問があった

それは…

他の旧六(東医歯、日歯、東歯、日大歯、大歯)が

戦後、GHQからA級判定を受けて

新制大学に昇格するなか

どうして「九州歯科大学」は

GHQからB級判定を受けてしまったのか?

そして、B級判定を受けたにも関わらず

どうして、現在大学として存続しているのか?

というものであった



先生の話によると

設備の問題と

県が、新制高校の設置などに追われて

予算を下さなかったことが

B級判定の要因だったらしい



とは言え、当時の同窓生たちは

戦後、空襲の被害が少なかった

小倉にあって

A級判定は間違いないと踏んでいたことから

非常に驚いたのだという

また、空襲の被害が少なかったのは

当初、長崎型原爆の投下目標地点だったから

とも言われている



しかし、なんとか条件付きで

新制大学に昇格したのだという

小林教授曰く、九歯大の歴史は

常に「条件付き」の中で

歩みを進めているところに

特徴があるのだという



こちらは

「横田式トランスミッター及び横田式構成咬合器」の

説明をする小林教授



この咬合器は、九歯大の矯正歯科学の

初代教授である横田教授が開発されたもので

患者さんの口の動きに合わせて

模型が動き、顎運動と咬合が転記できるのだという

一緒に聞いていた先生方からは

おぉ〜、と感嘆の声が漏れた

この装置は電池を入れっぱなしにしていたため

現在は修理しないと動かないらしいが

是非、一度、動いているところを

見てみたいと思った



そして、史料展の一番最後に飾られていたのは

私が一番見てみたかった…



「足踏みエンジン」であった

現在の電気モーターのものと違い

昔は足踏みでタービンを回していたのだと言う



小林教授曰く

足踏みエンジンによる切削は

非常に痛みを伴ったとされるらしい

ひょえぇ〜



また、【勝手に百周年企画】のときに

心行くまで読ませていただいた

戦前の卒業アルバムも

きちんとショーケースに入れられて展示されていた



こうやって見ると

べたべた触って読んでしまっていたけど

大丈夫だったのかな、と少し不安になった(笑)



こうして、一時間ほどで

史料展の閲覧は終わった

小林教授の説明付き閲覧は

非常に充実した楽しいものだった



史料展示は5月まで行われているそうだ



小林先生、ありがとうございました!





■関連記事■

 【勝手に百周年記念】校歌の謎にせまれ!
 
  その1:http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2026

  その2:http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2027

  その3:http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=2028



  コス島の石
  http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1597
   
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  http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=314
   

2014.02.16 Sunday

【勝手に百周年企画】校歌の謎にせまれ! その3

ついに、皇紀2600年のアルバムに

「新校歌」の記載を見つけることができた!



薄くて非常に見えにくいが

右上が「旧校歌」となっており

現在歌われている校歌と同一のものだ

そして、左下に「新校歌」の歌詞が掲載されていた



確かに、校歌が二つ掲載されていた!



ちなみに、上の写真に写っている

戦前の歯科医専時代の校旗は

なんやかんやで紛失したそう(笑)

いや、笑っていいのか?笑



こちらが、別の用紙に印刷されたもの

これが、学生の猛反発により

封印され陽の目を見なくなった

戦前に制定された

我が校のもう一つの校歌の歌詞である



戦前のもののため「九州歯科医専」となっている

しかし、昭和十三年の学友会誌に掲載されていた

「剣道部歌」をみてみると

現在の「剣道部歌」とほとんど同じ歌詞であったが

歌詞中の「九州歯専」の部分が

現在では「九州歯大」と変えて歌われていたため

同部分は、おそらく「九州歯科大学」などに

言い換えて歌うのが妥当だと思われる



とは言え、そのような改訂もされていない所にまた

かつての歯大生たちの「新校歌」への

冷遇っぷりが伺えるような気がした



では、なぜ、「新校歌」がこのような扱いを受けているのか?

さらに、前代未聞の校歌二つの制定にまでに

どうして至ったのだろうか?



先生に聞いてみると

「静かなる炎の人 

九州歯科大学の父永松勝海先生の人とその業績」

という一冊の本を貸してくださった



本を開いて、目次を見ると

「第三章 到津の青嵐」の冒頭に

「校歌事件」という題名の部分があった



ここに「新校歌」制定に到るまでの経緯が

非常に詳しく記されていた



当初、福岡市にあった

九州歯科医学専門学校は

昭和十一年に小倉市

現在の北九州市に移転した

一連の校歌騒動は

その校舎移転の際に勃発したものらしい



本著によると、秋吉理事長が

「花三春の〜」の校歌が犁ど覆無い”として

移転を機会に気品ある新校歌を作ろう

と提案したそうだ



秋吉氏は、当時の歯大生がカフェ遊びや

女郎買いに勤しむ様子を快く思っていなかったようで

「気品」「気品」と非常に強く

「新校歌」の制定に尽力されたようだ



九州歯科医専の教員は、その多くが

九州歯科医専の出身だったため

「自分たちがやってきたのだから良い」と

それを九歯の気風だとし

その気風は「花三春の校歌」によって

はぐくまれてきたものだとして

「気品がない」と言われることは

面白くなかったようだ

(100年前から、変わらないなぁ笑)



しかし、移転を機に新校歌制定も悪くはないとして

理事会で「新校歌」の制定が決定したようである


なんと、作曲は東京音楽学校に依頼、とある



残念ながら楽譜を発見することはできず

その「新校歌」の旋律を知る術は皆無なのだが

想像力の膨らむところではある



さて、理事会で決まった「新校歌」であったが

学生たちの中では連日、総会が開かれ

「新校歌」の賛成派と反対派に分かれて

議論を重ねたと言う



こうして「花三春の校歌」の精神を忘れるな!

と主張した学生たちは、「新校歌」に猛反発

しかし、「気品ある校歌」の製作を

どうしてもしたかった秋吉氏は

「新校歌」の制定を強行突破



ここに、二つの強硬論の折衷案として

校歌二つの制定

という、全国でもまれにみる処置がとられたのであった



しかし、ここまで楽譜が見つからない

というのも少し不思議である

どこかにないものか…?



さて、こうして「新校歌」の謎は

ある程度のかたちをもって解決するに至ったのである



最後に、インタビューの際に

少しだけ話が出た

「病院小唄」の歌詞も

同窓会誌より発掘されたので

ここに紹介しておきたい



「病院小唄」八番の歌詞について

先生が、当時は国試に実技もあったから

患者役として歯大生はよく

彼女を連れて行き

実技試験で

彼女の健全な歯を削ったり抜いたりして

試験を受けていたという逸話がある

という風に話をしてくださった

ナルホド、そういう時代もあったんですなぁ



さらに逍遥歌(昭和43年制定)まで発掘された



百年の歴史を持つ我が母校

その歴史の中には

歌われなくなった歌が

数多くありそうである



しかし、百周年を迎えるにあたり

百周年記念歌の制定もなく

祝う歌が校歌ひとつ

というのも、少し寂しい気がするのであった



【勝手に百周年企画】

校歌の謎にせまれ!



**完**




 

2014.02.15 Saturday

【勝手に百周年企画】校歌の謎にせまれ! その2

今朝、先生の教室を訪ねた

部屋には史料が積み重なっておかれていた



百年もの歴史があるにも関わらず

我が母校は、あまりにも歴史に

頓着しない校風のようで

史料はどんどんと処分されてしまっているそうだ



今日は、その数少ない残された

貴重な史料の中から

犖犬旅参”を探していく!



先生にまず最初に見せていただいたのは

こちらの古い卒業アルバム



表紙に「皇紀」で年度が記されていた

奇しくも皇紀2600年

昭和十五年の卒業アルバムだった


中を見ると、時代を感じる写真が多かった



李香蘭のカルテもあった(本物じゃないよね?)笑

ドイツ語で記されていた



当時は「教練課」が置かれ

配属将校も居り、時局にあって

教練も行われていたようだ



川棚といえば、以前

魚雷発射試験場の廃墟を見に行ったところだが

その川棚の地へ教練に出向き

それが終わると

温泉宿で一泊していたようだ



温泉宿で将棋・囲碁・麻雀で遊びながら

徳利片手に温泉につかる学生の姿も

アルバムに収められていた



楽しそうに酒を飲む姿だけでなく

登院実習で緊張の面持ちの学生や

説教におびえゲッソリしている学生の姿まで

アルバムに収められており

歯大生は100年経っても変わらないようだ(笑)



部活動は現在よりも非常に盛んだったようで

馬術部や相撲部などもあったようだ

相撲部は西日本で優勝などしており

今度の史料展では、優勝旗も展示されるらしい



部活ごとにバッジが作られており

形もデザインも様々なバッジも

アルバムの写真からうかがい知ることができた



当時の学生は、指定の角帽と学ラン

学ランの襟の部分に

Dentalの「D」のバッジと

部活のバッジをつけていたようだ



これは、以前、北海道同窓会の

開祖とも言える先生の古い写真を

見せていただいたときも見受けられたので

戦後もしばらく

このバッジをつけていたと思われる



さらに、昔は応援団などもあったようだ



応援団は戦後もしばらく存続していたようだが

現在では見る影もない



応援歌も同時に掲載されていたが

歌詞のみの掲載だったために

メロディーは藪の中

幻の応援歌となってしまっているようだ


アルバム内には、応援団が

街を行進する様子が収められていた



またアルバムの中には

対級試合(クラスマッチ)で

ラグビーをする場面なども収められていた

九歯は、今よりもずっとずっと体育会系の

マッチョな大学だったようだ



ちなみに、クラスマッチのラグビーは

先生の話によれば

戦後もしばらく続いていたそうだ

(先生ご自身が参加していたとのこと)



しかし、なかなか校歌の核心に

迫ることはできなかった



つづく


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■関連記事■

 川棚魚雷試験場跡(1)
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1866


 

2014.02.15 Saturday

【勝手に百周年企画】校歌の謎にせまれ! その1

話は数日前、試験期間中までさかのぼる

図書館で自習していた私は

図書館の掲示板で、あるものを見つけた



そこで、急いで担当の先生の所まで行き

色々とお話を伺うことにした



先生は食堂で焼きカレーを食べていた



私「先生、お食事中失礼します!

百周年記念の史料展、先生がご担当ですか?」

先生「そうだよ。」

私「とても楽しみにしています!」

先生「講堂のホワイエでやりますよ。」

私「史料を、展示前に見せていただいたり…できませんか?」

先生「いいよ。」

私「あ、ありがとうございます!!」



こうして私は

史料展より一足早く

じっくりと史料を見る時間を

設けていただくことができた



そして、お話を聞いていく中で

とても貴重なお話を聴くことができた



先生「実は、校歌が二つあるんだよ。」

私「え、校歌がふ、二つ?!」




先生「もうひとつ制定されているんだけど

一度も歌われていないの。」

私「まさに犖犬旅参”ということですね?」

先生「そうそう。制定されたんだけど、

当時の学生が反対してね。

誰も歌わないから、どこにも印刷されていない。

だから、誰も知らないの。」

私「でも、その犖犬旅参”も、

正式な校歌、なんですよね?」

先生「そうだよ。あ、あと、猊賊‐唄”とかもあったな。」

私「びょ、病院小唄ですか?!

それはどこにありますか?」

先生「史料を探せばあるはずだよ。」

私「犖犬旅参”の楽譜はありますか?」

先生「わからないけど、探したらあるかもしれないね。」

私「それでは、試験が終わりましたら

先生の教室にお伺いします!!」



我が校の校歌といえば

「花三春の〜」から始まる歌だ

しかし、先生のお話が本当ならば

「花三春の〜」以外に

もうひとつ、誰も知らない

正式な校歌が、実は存在する、ということになる

もし楽譜が見つかれば

犖犬旅参”を再現するのも面白いかもしれない



かくして、私は数ある史料の中から

犖犬旅参”を探すこととなった




【勝手に百周年企画】

校歌の謎にせまれ!




つづく




 

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2014.02.11 Tuesday

昭和初期の歯学教育を垣間見る(2)

今度は補綴の教科書を発見した



こちらもハードカバーの重厚なつくり



「有床義歯学」という名の本

筆者の肩書を見てピンとキタのだ

「日本歯科医学専門学校」とあるが

これは現在の「日本歯科大学」である

戦前、歯学教育は大学レベルではなく

歯科医学専門学校で行われていた



昭和三年に発行されたらしい

昭和三年といえば日本史を紐解けば

「満州某重大事件」が発生したりと

少しずつ軍部の

不穏な動きが見え隠れしてくる時期だ



さて、時代背景を踏まえたうえで

ページをめくってみよう



横書きだが

カタカナとひらがなの役割分担が

現代とは逆で面白い



とは言え、やはりカタカナ主体の書籍

というのは非常に読みにくい

当時の人は普通にすらすら読めたのだろうか?

(素朴な疑問)



陶歯の排列や

義歯の与える顔貌への影響などが

しっかりと記載されているということが

時たま挟まるイラストで

なんとかわかる



咬合についてもしっかりと記されている



86年前のトレ―も

現代のトレ―とほとんど変わらない

しかし、当時はアルジネート印象材が無いはず

(アルジネートが開発されたのは

第二次世界大戦の頃)

すると、寒天印象材を使っていたのだろうか?



私たちは寒天印象を採る際は

「水冷トレ―」を使用する

と習ったのだが、これは至って普通の

金属トレーのように見えるけど

どうなんでしょ?



出てくる顔写真が

皆、ガイジン

というのも時代を感じる



義歯も、基本的には

86年前と変わらないようだ

印象とって、石膏模型つくって

人工歯並べて、入れ歯にする

細かい改良などはあれど

これまた歯科医専の頃から

流れている物は一緒みたいだ



それがちょっと

安心感というか

嬉しかったりするのだ


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■関連記事■

 今週の実習ハイライト
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1256
  アルジネート印象材をめぐる日米の悲しい寒天の話
 


2014.02.11 Tuesday

昭和初期の歯学教育を垣間見る(1)

CBT前だから図書館に居ることが多いのだが

「気分転換」と称して

散歩をしている時間が

勉強時間を上回ってしまう今日この頃…



私は「散歩」と言っても

外に出て歩きまわるのではなく

図書館の中をうろうろして

本のタイトルを眺めるのが好きだ

これを「館内散歩」と名付けよう



本屋でも立ち読みするでもなく

手に取って買う本を吟味するでもなく

本の背表紙を眺めては

うろうろするのが一番すきだ



さて、今回の「館内散歩」で

とても面白いものをたくさん見つけたので

このブログで少しずつ

ご紹介していきたいと思う



実は我が母校は戦前からある

歴史のある歯科大学なのだが

図書館にさり気無く

戦前の本がちらほらと紛れ込んでいるのである



それを私の歴史好きならではの嗅覚で

鋭く見つけ出していく!

というのが、非常に楽しい

気分は麻薬探知犬だ



今回ご紹介するのは

戦前使われていたであろうと思われる

二冊の教科書である



まず、一冊目から取り上げていきたい



重厚なハードカバーの一冊



この背表紙でピンとキタ!

「臨床上必要ナル歯科保存療法」

と言う名の本である

(※基本的に旧字体は任意に

新字体へと変換して記載する】



これは第三版だから昭和五年二月十日に

出版されたものだけれど

初版が大正十四年

いまからおよそ90年も前の本

ということになる



べりっとめくってみると…



縦書き!

旧漢字!

カタカナ!

文語調!



なんだかカタカナ語も

微妙に違う(笑)

ピンセット→ビンセツト

スプルー線→スプルウ線

エクスプローラー→エキスプロウラー

でも、昔から使ってる器具は

基本的に変わりはないみたいだ



大先輩の書き込みも散見された

本当にこれ使って勉強していたんだ…



図もすべて手書きで

区分も「甲」「乙」



ブラックの窩洞についての記述が

この教科書の後半すべてを占めていた

今でこそ、その絶対性は薄れたとはいえ

私たちが習ったことと

ほとんど変わりはないようだ



セメントの練和方法の図が可愛い



これはもしかして綿栓?

少し左手の親指が曲がりすぎな感はあれど

歯科医師たちは90年も前から

綿栓を巻き続けているのか



果たしてこれは

進歩がないということなのか

それとも、100年前に

学問の基礎が確立している

ということなのか

そこら辺は何とも言えないけれど

教科書に書いてある基本的なことは

90年前も今も

そこまで変わりはないみたいだ


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 めんせん奮闘記
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=925


2013.09.28 Saturday

北原白秋と歯科

つい先日、「虚構の皇国blog」というブログで

またもや興味深い記事を見つけてしまった

北原白秋、紀元二六〇〇年前後の作品集」という記事で

「九大医学部歯科口腔外科教室歌」という詩を見つけた



まずは「九大医学部歯科口腔外科教室」の

歴史を紐解いていきたい

大正11年(1922年)に

「九大医学部歯科学講座」として設置され

大正13年(1924年)に

「九大医学部歯科口腔外科教室」と改称したらしい

そして、戦後、昭和47年(1967年)に

医学部から分離・独立する形で

「九大医学部歯科口腔外科教室」をベースに

「九大歯学部」が設置されたらしい

だから、現在の「九大歯学部」の前身にあたるわけか



ちなみに、戦前の歯科の教育制度は

大学教育ではなく「旧制歯科専門学校」で

4〜5年間、専門教育を受けて卒業した者が

資格試験を受けて免許をもらっていたはずなので

九大医学部で歯科医師が養成されていたというわけではなく

この九大医学部歯科口腔外科教室に

おそらく、推測の域を出ないが

大正10年(1921年)に設立された

私立九州歯科医学専門学校(現:福岡県立九州歯科大学)の

卒業生が集まっていたのではないだろうか?



たしか、設立された当時の歯科医学専門学校は

1〜2年で卒業できたと

大学の医学史の講義で聞いたことがあるので

それを踏まえると設置時期もぴったしである

(大正10年に旧制九歯設置

→大正11年に九大医学部に口外設置)



しかし、九大出身者が居た可能性も否めない

医師も抜歯などの口腔外科領域は施すことができるからだ

…戦前もそうだったかはしらないけれど

今度、誰かに聞いてみるしかないか



さて、話が脇道にそれてしまったが

北原白秋の作詞した

「九大医学部口腔外科教室歌」の1番が

「虚構の皇国blog」に紹介されていたので

引用してみたいと思う



   炬火をかかげ

   高く立つもの、

   今知らむ天の理法

   人体に満ちて隠るを。

   医はこれ玄々、すなはち実学、

   窮めて臻らば済生成すべし。

   九大、九大

   世界のその名と

   輝けこの歯科、

   見よ我が教室、新人群れたり。

   口腔外科、口腔外科、

   口腔外科、フレー



私が思うに、北原白秋のベスト・オブ・珍作である

「万歳ヒットラー・ユーゲント」に

匹敵するレベルのサビではないだろうか?

口腔外科、口腔外科、口腔外科、フレー

って…(笑)

フレーって(笑)

残念ながら、誰が曲をつけて

どのように歌われたのかは不明である

現在も歌い継がれているのだろうか?



以下は邪推であるが

この威勢の良い詩も、もしかしたら

私立九州歯科医学専門学校の卒業生

即ち、“九州歯科医学士”たちの思いの現れかと思うと

また一味違ってくる

…そこまで、北原白秋が

彼らの思いを組んでいたかはわからないし

実際に、九州歯科医学士たちが

配属されたかはわからないが

「新人群れたり」という詩からは

なんとなく、そういった背景が見えそうである



歯科医学を「すなはち実学」と歌い

「九大、九大

世界のその名と、

輝けこの歯科」と

わざわざ「九大」ブランドを押しだしているあたりが

もしかして、当時の専門学校教育だった

歯科学徒たちの医学部の“大学教育”という所への

コンプレックスや羨望の裏返しだったりするのだろうか?

う〜ん、いや、やっぱり、こりゃ邪推かな?笑



さて、ちょっと調べ始めると

とまらなくなるのが私の悪い癖で

北原白秋は歯科関係の歌を

この教室歌以外にも多数残している



北原白秋と歯科に意外にも密接な関係が?!

というよりは、北原白秋が

思いのほか仕事を選んでいないだけ

のような気もするのだが



例えば「咲けよ我らが歯科医学」という題の

「福岡県歯科医師会歌」も北原白秋の作詞であった

作曲者は判明するも、メロディーや作詞時期は不明

現在も歌い継がれているのだろうか?

あるのならば聞いてみたい



また、歯学部旧六校(戦前から設置されている

歯科医学専門学校を前身にもつ歯科大学)の校歌も

いくつか北原白秋の作詞によるものが残されている



まずは「大阪歯科大学学歌」



作曲は山田耕筰先生でとても格調高いメロディーである

YouTubeの説明欄には

「昭和11年の創立25周年記念式典が挙行された際

本学管弦楽団とグリークラブにより

この学歌の披露が行われた」とあるが

当時の私立大阪歯科医学専門学校には

管弦楽団と男声合唱団を編成できるだけの人数が

居たということなのだろうか!



また、「東京歯科大学校歌」も

北原白秋作詞、山田耕筰作曲である

こちらは、
東歯のHPに行くと

校歌の設定までの経緯が掲載されており

歌も聴くことができる



当時の私立東京歯科医学専門学校の学生たちは

「校歌を持ちたい!」と熱望し

学生の熱意に押される形で学校が

大正15年に北原白秋に作詞を依頼



しかし、北原白秋は多忙だったため

なかなかスムーズに作詞が進まなかったため

業を煮やした東歯の総勢600人にもおよぶ学生は

一人一枚、催促のハガキをしたためるなどして

昭和2年にやっと完成した校歌なのだとか

「私は校歌をいくつも作ったが、

こんなに感激して作ったことはいちどもない。

この学校の人たちほど、こんな熱心な、

猛烈な連中は見たことがない……」

と、北原白秋も感心するほどで

その思いは作曲家の山田耕筰も同じだったようだ



そのせいか、東歯の校歌は

とても完成度が高いように思える



さて、このように調べていけば

他にもたくさん歯科にまつわる

北原白秋の作品が出てくるだろう



北原白秋の歯科にまつわる詩からは

当時の歯科学徒の空気や

彼らにに求められていた物

また、歯科医学に北原白秋が求めていた物が

なんとなく浮き彫りになってくるような気がするのである



と、思っていたら

本当にそういう趣旨の論文までも存在していた!!

北原白秋作詞による歯学、医学の歌

ついに私の着眼点も大学の研究レベルにまで達してしまったか



この論文は東京歯科大学の齊藤力先生の論文のようである

大学図書館で探して、是非読んで見たいと思う



口腔外科、フレー

歯科医学、フレー、フレー!!




■関連記事■

 Mr.FIFTY SIX(決戦下の英作文)
 http://tulip-kimkim.jugem.jp/?eid=1353


2013.09.26 Thursday

ケーシーの由来

今日、登院用の白衣が届いた



普段、実習できている白衣(下画像左)と違う

いわゆるケーシー型白衣(下画像右)である



病院にいる先生方は皆、ケーシーである

ケーシーというだけで

急に、登院がもうすぐなんだなぁ、と実感がわいてくる

嬉しいような、不安なような…



さて、ケーシー型白衣のケーシーってなんだ?

ふと思った

歯科医師だけではなく

医科のほうでも外科系の先生が愛用している

作業しやすそうなデザインのこの白衣

名前の由来なんて気にしたことがなかった



以前、何かの講義で誰かが言っていたような…

でも、思い出せなかったため

いつも通りGoogle先生に聞いてみた



すると、1960年代に放送されていた

大人気ドラマ「ベン・ケーシー」に由来しているらしい

ということがわかった

ベン・ケーシーが着ている白衣ということで

ケーシー型白衣と呼ばれるようになったそうだ



1961〜1966年という長きにわたり

アメリカで放送された大人気ドラマで

日本でも1962年に放送が開始されたらしい

日本での最高視聴率はなんと50%を超えたとのこと

当時の日本国民の二人に一人は見ていたということか



じゃぁ、ケーシーが着る前までは何て呼ばれていたのだろう?



特にこれといった呼称はなかったようで

そもそも、これはケーシーが着るために

中世の理髪師の服装をモデルに設計したものだという

なるほど、なるほど



理髪師というと

現代の床屋さんをイメージしてしまいがちだが

“中世の理髪師”といえば

“理髪外科医”と呼ばれており

散髪に加えて歯科医師と外科医も兼ねていたのである



その証拠に、今でも床屋さんの目印である

三色のポールに外科医を兼ねていた名残が残されている

赤は動脈、青は静脈、白は神経

といった意味合いとなっているようだ



このケーシー型白衣は

中世ヨーロッパから外科医に適した服として

時代に合わせた形で受け継がれてきた歴史を持つ

職人の服だったんだなぁ



ちなみに、ケーシー型白衣を着ている

有名人といえば「ケーシー高峰」であるが(!)



彼の芸名も「ベン・ケーシー」から由来しているのだとか(笑)



全然知らなかったなぁ…



さて、明日で今週も終わり

さぁ、明日もがんばるぞ!



ばいちゃ☆


2013.09.10 Tuesday

旧六ひとめぐり

今日は母のご友人のご好意で

日本歯科大学と東京医科歯科大学を見学することができた



お昼に飯田橋で降りて

ひとりで昼食をすませた

大学一年生のときに

いけしょーと一緒に行った

えぞ松に行き

あの日食べきれなかった

回鍋肉定食(660円)を注文した



やっぱり食べきれなかった。。。

とても美味しかったのだが、無念(; ̄ェ ̄)



重たいお腹をかかえながら

日本歯科大学附属病院へ向かった



母のご友人と待ち合わせして

病院棟を案内していただいた

九歯大の附属病院と比べて

比較的こじんまりとした印象だったが

たくさん患者さんがいてにぎわっていた



病院棟から少し歩いて学部棟へ移った

昔は学部棟と同じところに病院も

あったそうだが、OBの意向で

JR飯田橋駅の真ん前に病院は移動したとのことだった

どうやら、駅前というのが大事らしい



学部棟には、玄関やロビーに

創設者の中原先生の銅像や肖像画が

たくさん飾られていた



中はとても綺麗で

学生の自習スペースがしっかりと確保されていた



ここは九歯大も見習ってほしい

(いつも試験期間になると

場所取り合戦となるからである)



JR飯田橋駅から御茶ノ水まで移動し

東京医科歯科大を見せていただいた

移動途中、車窓から

東京歯科大学が見えた



ホームから医科歯科大が見えた



医科歯科大、順天堂とならんで

建物がそびえている様子は

本当に、まるで要塞であった



M&Dビルにある研究室も覗かせていただいたが



高すぎぃ!笑



眺めよすぎぃ!!笑



さすが、歯学部の学歴ヒエラルキーで

頂点に君臨する医科歯科大

巨大な建造物は、我々に威厳を

示し与えているかのようだ



あと、大学グッズの目玉が赤本って…笑

不思議なところだ(^∇^)



また、医学部と歯学部の病院が

隣り合わせで、別々になっていることからも

多少の内部事情が汲み取れるような気がした



医科歯科大の正門から

駿台予備校の1号館が見えた



御茶ノ水駅で、母のご友人とはお別れして

少しだけ、街をぶらぶらした



突然の、便意に

私は日大病院へいくことにした



日大歯学部付属病院も

たくさんの患者さんでにぎわっていた



日大は偶然だったが

旧六歯学部のうち

いっきに三つを見ることができた

車窓から眺めた東歯もいれたら

四つか(いれるのか?笑)



とはいえ、九歯と大歯以外の

四つはとても近いところに

密集して建っていたので

とても驚いたのが正直な感想だ



母のご友人の先生には

たくさんわがままをいってしまったが

進路(大学院のこととか)などの

参考になるような話を聞くことができて

とても充実した一日となった



「医者と歯医者は全然違うと思うんです」という

先生のお言葉が印象に残った




2013.05.22 Wednesday

コス島の石

窓もブラインドで塞ぎこまれ

スライド投影のために

電気も消された暗い部屋にずっと座っていると

気が滅入ってきてしまう



外に出てみると、打って変わって

陽の光がのんびりと木々を照らしていたし

明るくぽかぽかとした気候は

私のささくれ立った心を癒してくれた



そこで、ふと気が向いたので

キャンパスの中を

少しだけ散歩してみることにした



すると、大きな石とすずかけの樹が目にとまった

そういえば、この大学に入学した直後の

「歯学概論機廚廼喫椶鬚箸辰討い

先代の学長が

医聖ヒポクラテスの故郷コス島の石と

ヒポクラテスの樹(すずかけの樹)が

キャンパスの中に置いてあると

言っていたことを思い出した



石はどっしりとしていた

まじまじと石を眺めてみると

そのごつごつとした岩肌から

積年の歴史から醸し出される

いわば貫禄のようなものを感じることができた

さらに、これが医聖ヒポクラテスにゆかりのある

コス島の岩というのだから

なんとなく、さらにありがたいような気分になる(笑)



岩には、プレートが埋め込まれていた



このコス島の岩と樹は

“いにしえの医聖を偲ぶとともに、

私達医徒の進むべき指標”とある

…身の引き締まる思いである



岩は木陰で、どこか涼しそうに見えた

ここにどっしりと座って

歯科学徒の行く末を見守ってくれているのだろうか?


(ビーチク山のてっぺんから撮影)



それでは、ばいちゃ☆


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